2004年1月アーカイブ


『東京の米』はpure loveなお芝居です。

昨年11月くらいまで、TBS系『Pure Love』という昼ドラがやっていました。素晴らしいドラマでした。オフィシャルHPから引用します。
【小学校の先生と禅宗の雲水(修行僧)という、ストイックな恋を描いた「ピュア・ラブ」。】
嗚呼これ読んだだけでワクワクしませんか?私だけですか?
パート1から始まってパート3で完結したのですが、キスは勿論デートも殆どなし、好きの惚れたのという告白の言葉さえ皆無。先日、稽古場で役者さんたちに半強制的に見てもらいました。

前回は、以下の三つに、「云えない言葉」をカテゴライズしました。
1.云うべき相手がその言葉を知らないでいて、云えない言葉。
2.云うべき相手もその言葉を知っていて、なのに云えない言葉。
3.云うべき相手の腹のなかにも同じ言葉があって、なのに云えないし相手も云わない言葉。

つまり、3.に当たるのが、『Pure Love』の場合です。

けれど、相手が別に修行中のお坊さんでなくても、云えない言葉は日常的に、私たちの腹のなかに溜まっている。云ってしまったら抜き差しならない状況に自分や相手を陥れてしまう言葉。だから、敢えて言葉にしない。「言葉にできない気持ち」でもないし、「相手にショックを与えたり関係を壊してしまうから言えない」だけでもない、「相手も自分も承知しているのに言えない」言葉。云ったら変化し始めた状況の舵を、自分がとらなければならないから。保身。自分が可愛い。責任がとれない。などなど。
だから、言葉ナシで曖昧にして済まそうとしてしまう、場合もありますよね。好きって云わずにセックスしてしまうとか。ルージュの伝言だけ残して彼の実家に逃げるとか。

そういう言葉を腹の中にしまっておくと、やっぱりガスみたいに溜まって苦しいと思います。やがて、大事な言葉を云わないまま人はおッ死んでしまって、そういう言葉が世界のどこかにたくさん溜まっているような気がする。いつかオゾン層を5%くらい破壊します。どうすればよいのか。

愛することに疲れたみたい
嫌いになったわけじゃない
部屋のあかりはつけてゆくわ
鍵はいつもの下駄箱のなか

云ったら、別れさせてもらえないです。だから、この言葉は間違いなく、男に伝わっていない。二度と伝えられない言葉。女の腹のなかに、永遠に溜め込まれた言葉。女が死んだら大気の中を上昇して、牛のげっぷと一緒くたになってしまう言葉。
でも松山千春が歌えば、「云えない言葉」はちゃんと云ってもらえるから、溜まらない。松山千春が牛のげっぷを引き受けるから。喩えるなら松山千春は、牛がげっぷしちゃう前に牛の腹をさすってやってるのだと思います。

思えば歌やお芝居は、ほとんどがこんな言葉でつくられているのかもしれない。それはだから、自己満足とかじゃなくて、ちゃんと地球規模で貢献してますね。えらいです、千春。オゾン層の破壊を食い止めるため。ぼくらの地球を守るため。

『東京の米』は、牛のげっぷみたいなお芝居です。

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昨年12月30日に、役者たちと一緒に東京ピクニックへ行ってきました。
東京駅で朝10時に待ち合わせて、東京フリーきっぷを購入。
都営バスにて東京タワーへ。

年の暮れだというのに(だから?)、東京タワーでは展望台へのエレベータが入場制限されるほどの人の群れが。この時期に来るのは家族が東京住まいの地方の人たちとかなんでしょうか。東京から大量放出される帰省ラッシュに逆らって産卵期の鮭のごとく上ってきたばかりか、よりによって東京タワーに来てしまうっていうのはTPOで言ったらたぶんTとPがそぐわないから、Oでやむにやまれなかった人たちなのでしょうね。

そのなかでもひときわ目をひいたのは、アジア・アラブ系の人々でした。家族連れだか友人連れだかはっきりしないけれど、記念撮影コーナーでタワー写真のパネルをバックに微笑んでいる割と素朴な格好のご一行や、展望台行きエレベータではしゃぐ子どもたち。彼らもまた家族の誰かが東京で暮らしているのかもしれません。お正月は実家で過ごせとか家族と過ごせとか言うつもりはないけれど、やっぱりTPO的にはTもPもそぐわないような気がしてしまいました。

東京タワーの目玉といえばやっぱり2階のお土産物フロアと蝋人形館だと思うのですが、相当楽しかったです。蝋人形は悪ふざけにならない程度にキッチュだし、東京タワーのミニチュアのお土産物にはちゃんと「努力」って書いてあるし。金の東京タワーがついてる耳掻きとか、ニーズとウォンツの隙間で絶妙に空回りしてる商品たち。
時間も忘れてはしゃいでいたとき、誰かがふと「おのぼりさんみたい」と口走りました。東京タワーのキーホルダーをキャッキャッ言って喜んだり、マスコットキャラののっぽん君(痩せた薩摩芋みたいなピンクの生き物)と記念撮影したりしている自分たちの姿はたしかに「おのぼりさん」そのものでした。

「おのぼりさんみたい」という言葉は「ほんとは自分たちはおのぼりさんじゃない」という自信に裏打ちされているのだと思うのです。つまりTもPもOも大丈夫ズレてないということ。
でも年の暮れにカップルでもなく家族連れでもなく、東京近郊に住んでるのにわざわざ東京フリー切符買って東京タワーに行って、しょっちゅう電車から見ているのに東京タワーのミニチュア買っちゃう、

あら私たちってばTもPもOもそぐわないじゃない。


それで、思ったのは、東京タワーって誰がいつ行っても、おのぼりさんになってしまうんだろうな、ということ。誰がいつ行ってもTPOからズレた気恥ずかしさを引きずってて、みんなおのぼりさん。たとえ東京よりカッコイイオシャレな都市からやってきたジンガイでも、東京タワーではおのぼりさん。そもそも彼らの国に、都に対して「上る」「下る」って発想があるのかどうか、分からないけど。
つまり東京タワーは333m以上に、TOP OF TOKYO。そしてTOP OF THE WORLD。

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よく日本人の主食は米だと言われて、私も馬鹿の一つ覚えみたいに、「日本人の主食は米です、とか言っちゃうじゃないですか。でもコンビニのおにぎりくらいしか食べないですよね、ね」なんて方々で言いふらしていましたが、日本人の主食が米だというのは妄想らしい。
というと語弊があるけれど、少なくとも弥生時代以降日本人は稲作によって生活の基盤をなしてきた農本主義国家でしたというのは、疑ってもいいようです。国家につくられた伝統みたいな話はよくあるけれど、たぶん大事な問題は「じゃあなんで日本人の主食を米にしたかったわけ?」ということですよね。

律令国家ができてから、戸籍に入った人間ひとりひとりに水田を分け与えたって歴史の教科書には書いてあったけど、実際のところ当時の日本列島には全員に分け与えるほどの耕地は開かれていなかったし、全員が食べるほどのお米も獲れていなかった。だからたいていは肉とか穀物とかどんぐりとか食べていたんですって。米はむしろ貨幣=交換手段としての性格が強く、お米を作っているところではお米が食べられず、都市の豊かな商人たち(中世以前の、ですよ)の手に多くは渡っていた。
現在の日本で一番美味しいお米が食べられるのは東京だ、という話と少し似ている。全国から集まってきますから、お米。
米が貨幣として機能していた、ということも、由縁をたどれば神様にささげるものだったから、つまりつくった人のものではなくって神様のものだったから、いったん神様(=しばしば天皇・中央集権と同じところ)にお返しすることで、手垢のついていないネームタグもついていない所有権もついていない純粋なツールとして使うことが可能だった、というような話です。ただ庶民の口に入りにくいからという理由だけではなく、そういう聖なるものだったところから、日本人のお米に対する憧れや執着が生まれているのではないか、とか。

でも当時の中央政府が「米つくれー、米つくれー、コメー」と言っていたことは確かだそうで、やっぱり日本はお米の国になりたかったんだと思います。農本主義とか言われても農民は貧しかったしお米を食べていなかった日本。でもお米を食べたかった日本。
「日本人の主食は、米です!米ってことに、したの!したいからするの!」って言い張ってる日本。
「お米、食べたいなあ」って指くわえている日本って、ちょっと新鮮ですね。指はくわえなくてもよいけど。
白いからかなあ美味しいからかなあ栄養があるからかなあ海を渡ってきたからかなあ。


公演のチラシに「日本人の主食は東京です」という文章を書きました。もしどこかで見かけたら、読んでいただければ幸いです。
そういえば東京も、明治に入ってからの遷都でしたね。天皇をわざわざ京都からひっぱってきて皇居つくっちゃって、京都では当然、色々と反発もあったようです。ちなみに皇居の中では田植えby天皇と養蚕by皇后が行われているそうです。でもこれは昭和からだったかな。
やっぱり、「日本人の主食は米です」も「日本の首都は東京です」も、駄々っ子が言い張ってるわがままのような気がするのは、私だけですか?悪くないと思いますけど、駄々こねるのも。

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私は根がひどくまじめなので、何か書こうと思うと緊張してしまい、その重圧から逃れるためについついふざけたことを書いてしまいます。でもたまにはまじめストレートで、10代の頃のように素朴な疑問をとめどなく溢れさせたいと思います。
ちなみに中学生の頃ある日突然、宇宙の理がいっぺんに閃いて、頭の中で言葉がとまらないのでノートに書きとめて友人に見せたのですが、なぜか口調が「〜じゃ。」だったことで失笑を買いました。


このお芝居がスタートしてからずっと気にかかっていることは、「云えない言葉」ということだ。
誰にでもあると思う、本当は云いたいのに云えないでいる言葉。

「言葉にできない」ということがある。言葉にできないことを言わないのは当たり前で、今更切ながる必要はないのだと思う。そんなものは後生大事に胸の中にしまっておけばいい。口に出したら腐る。
それよりも、言葉が鋳造されてきちんとできあがっていて、なのに口に出さない言葉の方が、気にかかる。そんなものがいっぱい溜まったら心臓が重さに耐えかねて破れてしまうかもしれない。もしくは胃。
言葉にできない気持ちは胸の中にあるのかもしれないけど、言葉にできている云えない言葉はきっと腹の中にしまわれているのだ。

云えない言葉には、たぶん3段階ある。
云うべき相手がその言葉を知らないでいて、云えない言葉。
云うべき相手もその言葉を知っていて、なのに云えない言葉。
云うべき相手の腹のなかにも同じ言葉があって、なのに云えないし相手も云わない言葉。

ひとつめは片想いとか一方的に腹を立てているとか、そういう状態。
ふたつめは恋人に好きだと云えない事だとか険悪な相手と波風立てないために嫌いと云わないとかそういう状態。
みっつめはお互いどう考えても好きあっていたり嫌いあっていたりして、一度も口に出したことはないけど確信があり、だけど何かの理由でお互いに口に出せない状態。

この話は長くなりそうだから、つづきは又今度。

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東京kcal

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今日は失恋レストランからお送りしています、石神です。ここの文章を書くために一生懸命考えていたらお腹が空いたので、失恋までのフルコース定食を食べながらで失礼します。もぐもぐ言ってたらごめんなさい。

『東京の米』は1年半ほど前に一度上演されています。この初演のときに、パンフレットに「東京まるごとHOWマッチ」という文章を書きました。
例の番組で東京の値段を出題したら、「ニアピン賞」は貰えるかもしれないけど、正確な値段は絶対に答えられないから、大橋巨泉も「ホールインワン賞」は出せないだろう、という話でした。だったらお米で、たとえば「何石」というように計算したらどうなんだろう、もしかしたら東京の「ホールインワン賞」が貰えるかもしれない、という結。

今回の再演が決まったとき、あるスタッフがメールで「こんにゃくライス」の話を教えてくれました。米粒大のこんにゃくを炊き上げるそれは、いくら食べてもノンカロリー。もし東京の値段をお米で算出するとして、その米が「こんにゃくライス」だったら、へっぽこです。東京の米は、一膳250kcalのご飯じゃなきゃやっぱり嫌な気がします。こんにゃくライスで測られる東京の値段も、ある意味では的を得ていますが。東京を米の量でも、勿論価格でもなく、カロリーで測る。彼は東京の値段をお米でより精密に測る方法を、教えてくれたわけです。
巨泉メガネを突き破って目潰しするくらいのグッドアイディアだと思いました。

東京タワーを作るために消費されたカロリー。毎日電車が走るために消費されたカロリー。女の子が好きでもない男とセックスするために消費されたカロリー。東京で消費されるカロリー。東京が消費するカロリー。このセンでいけば「ホールインワン賞」を狙えそうです。もぐもぐ。

けれど問題は、お米のカロリーが「食べたお米のカロリー」なのか「お米を作るカロリー」なのかということです。都内に限れば後者で測るより、前者で測った方がはるかに値段は跳ね上がるけれども、きっと東京の値段は前者で測られるんだろう、と思います。東京の枕詞は「消費」ですから。
でも、さっきから、まるで誰かが東京を買占めでもするかのように、「東京の値段」ということを言っていますが、対価を計算するために必要な数値はコストですね。だとしたら、お米も「作るカロリー」で算出しなければならないはずです。
これは困った。

答えが出ないまま、定食を食べ終え、最後に一粒残らずご飯をかき込んで「ごちそうさま」と言った瞬間、お茶碗の中にほかほかと湯気を立てたご飯が出現していました。驚いた私に、つのだ☆ひろ似のマスターは微笑みながら、「ポッカリ空いた胸の奥に、つめこむメシを食べさせる」と口ずさみました。そのとき、分かりました。東京の米は消費された瞬間に生まれるのだと。食べても食べてもキリがない、いくらでも食べられる、でも本当は消費もしてなければ作り出してもいない、幻の250kcal。私のお腹がグウと鳴りました。何も生まないセックスでもなく、セックスで何かを生むのでもなく、セックスしてないのに生まれてしまう何かのように、失恋もしていない私の胸の空洞を埋めたカロリー。私はマスターに言いました。
「チキショウ、いっぱい食わせやがったな。」

おあとがよろしいようで、すみません。

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2月公演『東京の米』で脚本・演出をやらせていただく石神夏希です。
これからしばらく、ここで、『東京の米』にまつわるお話をしていきたいと思います。
読んでいただく事で、
池袋に行くのが楽しみになったり、誰かを誘いたくなったり、チラシを押し花風に厚手の本に挟み込んだり、あと舞台の上に立つことやトンカチを振るうことにアガペーやエロスを感じたりするようになってくれればいいなと思っています。
つまりお客様とペピンがともにモリモリ楽しむためのhop step jumpをご提供します。

個人的日記や稽古場日誌ではありませんが、誰に向けて、いつまで、何を、といったことを説明するのはちょっと難しいように思われますので、ここで、ペピンを「中華料理屋」、『東京の米』を「夏」に喩えて言ってみますと、


昔働いてた中華料理屋では、夏になると「冷やし中華始めました」と書かれた札が貼りだされました。
けれども「冷やし中華終わりました」という札が貼りだされたところは、見たことがありません。
つまり冷やし中華は夏とともに始まり、夏が終われば否応なしに終わるのです。さよならは言わない。
コンビニのおでんも然り、ペピンブログも然り。


とりあえず「夏」が来たので、ペピンブログ始めました。

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