2004年2月アーカイブ


『東京の米』にご来場いただいたみなさま、ありがとうございました。
明日が最終日です。まだご覧になっていない方、どうぞ遊びにいらしてください。

池袋駅前徒歩3分の、「東京芸術劇場」という場所で、やっています。
いらっしゃるお客様に、「遠くからありがとうございます」って言うのが癖です。普段は神奈川でやっていることが多いので、東京に住んでる方や千葉・埼玉に住んでいる方には、「いつもは遠くて申し訳ないので・・・」と言うと、「いや、別に変わらないよ」と返ってくることがとても多かったです。
横浜でも、池袋でも、別に時間的には変わらないよ、と。

みんなが足で移動していた頃、行ける範囲って限られていたのだと思うし、水戸黄門がほんとうは全国行脚なんてしなかったという史実があるそうだから、誰にとっても距離の限界って共通だったのだと思うのです。でもいまは、交通手段はいろいろあるし、それにしたがって当然だけれど距離感は変わりますよね。

距離を時間で測ると、千葉からは池袋も横浜も同じだったりするのですよね。
ちなみに私の家からは電車で、都内まで1時間で、池袋までは2時間弱くらいかかります。

移動距離が変わると、出会う人も変わりますね。それから出会い方も。電車がなかったら会えなかった人がたくさんいるし、とりあえず自分が東京都の池袋で、東京にも神奈川にも住んでいない人と出会っているのは、よく考えてみると不思議です。

ひととひととの縁って、私はいまも昔もあるような気がしますが、それでもやっぱり移動距離で限界が生まれたと思う。いまは昔とは違って、沖縄県の人や海外の人とも縁が生まれたりするけど、まだ火星の人とは縁がないし。縁、や運命、なんかが交通手段に左右されている。
たとえば電車は多くの人が利用する交通手段だけど、電車のせいでひととひととの縁や運命が、ぜんぜん変わっているのだと思う。
たとえば江戸時代に生まれていたら、近くに住んでる人としか縁がなかったかもしれない。
でも、いまは私と北海道に住んでいる人の間に、縁が生まれている。

そう考えたとき、電車によってひととひととの縁が変化している、と言うこともできるけど、もし、たとえば、生まれたときから縁とか運命とかがあるのだとしたら、縁のある人や出会うべくして出会う人たちが、電車や飛行機や船で、世界中のいろんな場所に散りばめられているのかもしれない。
だからきっと、「出会うべくして出会う人」と出会うことは、昔の時代よりも、難しくて、手間がかかって、いろんな障害が入りやすいことになっているのかもしれないです。

でも、だからこそ出会いがエキサイティング。出会いが奇跡的になる、そんな気がする。
だって従兄弟とかじゃなくて、ぜんぜん血のつながりも遠くて子供の頃まったく違うものを見て育った人と、結婚することになったりするのだから。
電車があったから出会ったのではなくて、電車があったせいで今まで出会えなかった人と、ようやく出会っているのかもしれないです、ここ、池袋で。

『東京の米』は、京浜東北線を北上する恋の物語。
JR東日本のせいで、ばらばらに散らされた恋人たちが、奇跡的に出会うことを夢見る物語。
そんなことを、今日思いました。

残るは明日の17時からのステージのみです。
いままで出会えなかった、「出会うべくして出会う人」たちに、明日池袋で出会えるかもしれない奇跡に、かすかな興奮を覚えつつ。
それでは明日、劇場でお会いしましょう。

コメントを書く

Sweet Memories

user-pic
0

いよいよ明日に初日を控えました東京の米。
役者どもは池袋に滞在しております。なんというか、すごい町です池袋、一度はおいで。

つい先日、徹夜した明け方に寝ぼけてすごくはっきりとした夢を見ました。
死んでしまったものの夢。
うちで飼ってた犬が、土の中から出てくるのです。息をして、目を開いて、歩いて、わんわんと鳴きました。(実際は、土葬はしてないですよ)

先週くらいに、携帯電話を新しく買いなおしました。
2年くらい使い続けた、口紅みたいに真っ赤なお気に入りの電話が壊れて、充電ができないし、すぐに電源が切れるし、通話ができなくなってしまったのです。
慌ててヨドバシカメラに駆け込んで、適当に安いやつを買おうと思ったんですけど、今は古い機種って、置いていないんですね。結局、最新に近い機種を×万円で買う羽目になってしまいました。

犬と一緒に夢に出てきたのは、その、赤い携帯電話でした。もう充電もできないし電源も入らないはずなのに、ボタンを押したら急に画面がついたのです。ちょっとうれしくて、古いメールを読み返して、ああ懐かしいと思ったら、すぐにぷつっと電源が切れて、画面はまっくらになってしまいましたが。
それと一緒に、うちの犬もすぐに動かなくなってしまいました。もう私を見ない目。声を出さない喉。
私は携帯電話と犬を抱いて泣きました。
悲しかったです。悲しかったけど、もう一度会えてうれしかった。

目が醒めたら、私の枕元には新しい携帯電話。
死んでしまったものは、電波に乗ってやってくるのだと思うのです。
電波といっしょに、死んでしまったものとの愛情やなにやら、生きているうちにはくだらなくてつまらない感情が、たくさん飛び交っている。
だからきっと、私たちが愛しく思う死んだものたちは、テレビや、電話や、ラジオや、インターネットに乗って、私たちの前にやってくる。

そんなことを思いながら、明日の初日を迎えます。電波と死んでしまったものと、『東京の米』がどんな関係があるのかは、来てのお楽しみ。
皆さまのお越しをお待ちしております。

コメントを書く

oni.jpg

更新にずいぶん日があいて気がつけば2月。すみませんでした。
豆を撒いて、嗚呼うるう年ですね、ご機嫌いかがですか。
私は通りすがりの幼稚園生に「鬼は外」と豆をなげつけられてしまいました。鬼に見えたか。

豆は生と死の境界的な食べ物として考えられていたそうです。
だから、古代の人は、穀物を炒って食べてたけど、豆だけは茹でて食べていたんですって。
鬼もまた、生と死の境にいる「もののけ」です。
炒った豆は、水分=霊を追い出すことで、すでに鬼退治の意味があるそうです。
一年で一番寒い季節に、鬼=陰(おぬ)を追い出して、陽=春を招く。
そしてそれは、「鬼は外」「福は内」の外と内の境界線を再確認して引きなおすことだった、と。
全部請け売りなので本当かどうか分からないですが。
そういえば、悪さをする鬼を豆の姿に変えてガリガリと食べて退治してしまう英雄の昔話を、どこかで聞いたことがあるように思います。どなたか知っていらしたら教えてください。

私のうちで飼っていた犬が死んだとき、一晩遺体をお部屋に置いておいたのですが、
ひとってフシギなもので、
「そのとき、お姫様の涙が死んでしまった蛙のからだにこぼれました。すると、どうでしょう。みるみるうちに醜い蛙の姿は消えて、美しい王子様が、そこに立っていたではありませんか」
という、童話の文句を思い出したりしたのです。涙が降りかかったら、生き返るだろうか、と思ってしまうんですね。
もちろんそんなことはないんですけど、乾いた土や萎れた花のように、水分を与えたらよみがえるんじゃないかなって、生きる知恵だか哀しい妄想だか、古代人の発想がDNAに沁みついているんでしょうかね。
生と死の境目から、死者を引き戻すための方法。

お米は、水分を加えて炊くわけですが、それでいくと霊を、魂を吹き込むような行為なんでしょうか。
お米はそのままなら、何年も保存できますよね。それに水を加えて火をかける。
再生。よみがえり。
ふっくら炊き上がったご飯は、また、生きる糧になるわけで。
そういう風にみれば、お米も生と死の境にある。

それはつまり、お米を炊いて食べるということが、生と死の境から返ってきた命をいただくということですよね。「死」によく似た(仮死状態?)ものを、水でもってよみがえらせて、「生」にして食べる・からだの内側に入れる。それは、生と死の境界線を引きなおすことですよね。
つまり、死は外、生は内。

だから、ご飯を食べることは毎日、生きることと死ぬことの境界線を引きなおして、自分を「生」の側にキープしておくことなんだなあ、と「内」に撒いた豆を食べながら、ふと思いました。
でも、お姫様の涙で蛙の王子様がよみがえるのは、ほんとはルール違反。だって境界線狂っちゃいますから。王子さまは魔法をかけられた時点で、きっと死んでいたのだと思う。ほんとは生き返らないはずの死者をよみがえらせられたのは「涙」だから。ほんっと、特別だかんね?今回だけだかんね?って神様がしぶしぶ認めた例外。

人間がお米を生む、ということもかなり、鬼=生と死の境に近い、と思う。境界線狂っちゃってる。境界線引けないということは、タブーということだ。
人間が人間を食べることが、人間という境界線を狂わせるように、カテゴリーぶっ壊しちゃうから。食べたひとは多分「鬼」と呼ばれるんだろう。でも米を生むひとは少し、そのズレ方とは、違う気がしてる。

少なくとも、幼稚園生に豆を投げつけられた私は半分あっち側の世界にいたようなので、恋人の涙で炊いたご飯でもいただきましょう。鬼は内。

コメントを書く