キャッチアンドリリースそれからターンでゴロ

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更新にずいぶん日があいて気がつけば2月。すみませんでした。
豆を撒いて、嗚呼うるう年ですね、ご機嫌いかがですか。
私は通りすがりの幼稚園生に「鬼は外」と豆をなげつけられてしまいました。鬼に見えたか。

豆は生と死の境界的な食べ物として考えられていたそうです。
だから、古代の人は、穀物を炒って食べてたけど、豆だけは茹でて食べていたんですって。
鬼もまた、生と死の境にいる「もののけ」です。
炒った豆は、水分=霊を追い出すことで、すでに鬼退治の意味があるそうです。
一年で一番寒い季節に、鬼=陰(おぬ)を追い出して、陽=春を招く。
そしてそれは、「鬼は外」「福は内」の外と内の境界線を再確認して引きなおすことだった、と。
全部請け売りなので本当かどうか分からないですが。
そういえば、悪さをする鬼を豆の姿に変えてガリガリと食べて退治してしまう英雄の昔話を、どこかで聞いたことがあるように思います。どなたか知っていらしたら教えてください。

私のうちで飼っていた犬が死んだとき、一晩遺体をお部屋に置いておいたのですが、
ひとってフシギなもので、
「そのとき、お姫様の涙が死んでしまった蛙のからだにこぼれました。すると、どうでしょう。みるみるうちに醜い蛙の姿は消えて、美しい王子様が、そこに立っていたではありませんか」
という、童話の文句を思い出したりしたのです。涙が降りかかったら、生き返るだろうか、と思ってしまうんですね。
もちろんそんなことはないんですけど、乾いた土や萎れた花のように、水分を与えたらよみがえるんじゃないかなって、生きる知恵だか哀しい妄想だか、古代人の発想がDNAに沁みついているんでしょうかね。
生と死の境目から、死者を引き戻すための方法。

お米は、水分を加えて炊くわけですが、それでいくと霊を、魂を吹き込むような行為なんでしょうか。
お米はそのままなら、何年も保存できますよね。それに水を加えて火をかける。
再生。よみがえり。
ふっくら炊き上がったご飯は、また、生きる糧になるわけで。
そういう風にみれば、お米も生と死の境にある。

それはつまり、お米を炊いて食べるということが、生と死の境から返ってきた命をいただくということですよね。「死」によく似た(仮死状態?)ものを、水でもってよみがえらせて、「生」にして食べる・からだの内側に入れる。それは、生と死の境界線を引きなおすことですよね。
つまり、死は外、生は内。

だから、ご飯を食べることは毎日、生きることと死ぬことの境界線を引きなおして、自分を「生」の側にキープしておくことなんだなあ、と「内」に撒いた豆を食べながら、ふと思いました。
でも、お姫様の涙で蛙の王子様がよみがえるのは、ほんとはルール違反。だって境界線狂っちゃいますから。王子さまは魔法をかけられた時点で、きっと死んでいたのだと思う。ほんとは生き返らないはずの死者をよみがえらせられたのは「涙」だから。ほんっと、特別だかんね?今回だけだかんね?って神様がしぶしぶ認めた例外。

人間がお米を生む、ということもかなり、鬼=生と死の境に近い、と思う。境界線狂っちゃってる。境界線引けないということは、タブーということだ。
人間が人間を食べることが、人間という境界線を狂わせるように、カテゴリーぶっ壊しちゃうから。食べたひとは多分「鬼」と呼ばれるんだろう。でも米を生むひとは少し、そのズレ方とは、違う気がしてる。

少なくとも、幼稚園生に豆を投げつけられた私は半分あっち側の世界にいたようなので、恋人の涙で炊いたご飯でもいただきましょう。鬼は内。

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