2004年6月アーカイブ


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我が家の屋根裏には、子供のころに母に読んでもらった絵本が積んであります。
先日、思うところあって数十冊持ち出してきました。
そのなかに、記憶のない児童書が一冊ありました。子供のころに読んでもらった覚えもありません。気まぐれにそれを開いてみて、ちょっとショックを受けたので、ここで紹介させていただこうと思いました。


昔々、あるところに「エスメラルダ」という世界一幸せなお姫様がいました。
そんな風にこの物語は始まります。
お金持ちで、王様のひとりっこで、おもちゃもお菓子もブランコも子馬もとびきり上等のものを持っています。エスメラルダは、人が望むすべてのものを持っていました。
ただ、

「エスメラルダには、ひとつだけないものがありました。そして、それを、国じゅうの人びとがなげいていたのです。
エスメラルダは、うつくしくなかったのです。
それはだれの目にもあきらかでした。」

「美」は価値観に拠るものだ、人それぞれだ、なんて言い訳をみごとに突っぱねています。
それにしても、だれの目にもあきらかなほど、表情でもおしゃれでも贔屓目でも覆しようがないほど「うつくしくない」人なんか見たことありますか?
いったいどんなお姫様なんでしょう。よっぽど表情が悪いとか、一部に特徴があるとか、お風呂に入っていないとか?

「いいえ、かみのけや、かおいろなんかが、エスメラルダのきりょうをだいなしにしたものではなかったのです。
そのかおつきに、どこかへんなところがあったのです。」

彼女の「うつくしくなさ」は、顔つき、つまり顔の造形に由来しているようです。
・・・身も蓋もありません。「でも笑顔はかわいい」とか「後姿はちょっといける」とか「動物に好かれる」とか、フォローの一言があってもよさそうなものですが、ありません。
もしこれを読んで悲しい思いをする人がいれば、きっとその理由は、これを言い換えるとここでの「うつくしい」「うつくしくない」の基準が、純粋に造形のみを追求したものである、という点だと思います。
『みにくいあひるのこ』でも『シラノ・ド・ベルジュラック』でもいいんですが、普通は「うつくしくない」ものには「うつくしい」心や才能が与えられるものです。そしてそれゆえに(或いは悲しいけれど、それのみ)愛されます。そうでなければ救いがないからです。
ところがエスメラルダは、「とてもうぬぼれのつよい、ごうまんな子ども」だそうで、性格もかなり悪いようなのです。おかげで許婚である隣の国の王子様にも嫌われるほどです。
この童話、題して『みにくいおひめさま』。

・・・・・・・

念のため言っておくと、この物語はハッピーエンドです。
物語の後半や、結末は、察しのいい方にはご想像がつくかもしれません。
けれどここではそれをいったん置いて、冒頭にさかのぼってみたいのです。

「むかし、あるとおい王国に、ひとりっこの王女がいました。なまえをエスメラルダといい、ただひとつのことをのぞけば、せかい一しあわせな王女でした。」

彼女は、とてもとてもみにくい、だれが見てもみにくい、顔をしていました。
けれど彼女は「せかい一しあわせな王女」でした。
少し屁理屈を言わせてください。
世界一幸せな少女は、性格やおしゃれなんかじゃフォローできないほど、だれにも愛されないほど、醜い顔をしていたんです。
どうして彼女は幸せだったんですか?


この物語の後半は、ここでは紹介しません。
あらゆるところで繰り返されてきた「物語の型」に当てはめて想像できてしまった人も、忘れてください。
美質や愛をいっさい持っていない少女が、どうして世界一幸せだったのか。
ちなみに悪徳の限りを尽くして快楽を得るような少女ではありません。七歳だそうです。
ポニーに乗って、おやつにプリンやアイスクリームを食べている少女です。
なんで彼女はしあわせになれたんですか?
あと、「人はパンのみにて生くるにあらず」って、どういう意味ですか?

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