2004年7月アーカイブ


頭と要領の悪さが思い切り出てしまって、
前回の「みにくいおひめさま」にたくさんのコメントをいただきながら、なかなかお返事ができなくなってしまいました。ほんとにごめんなさい。
そしてそして、コメントくださった皆様、ありがとう。また書いてくださいね。

さて、「みにくいおひめさま」ですが、
私自身、答えがわからなくって、だけど何か答えがあるような気がして、あんな風な投げかけで終わってしまっていたのですが、
いまでも答えはわからないです。だけど、いろいろコメントを読んで考えたことは、
「しあわせ」が相対的なものである、ということです。
ヨリ正確に言えば、私たちが何時か何処かで「しあわせ」が相対的なものであると考えることを覚えた、ということです。
お菓子を配られる順番に愛情の大きさを比べたり、「しあわせ」を反語的に遣うことを覚えたのかなって。何時、何処でだったんだろう。

そもそも「みにくさ」って相対的なものですが、
この童話が子どもにわかりやすく書かれているがために、その描写が限りなく「絶対的なもの」に近づけようとされていると思うんです。
「この子はみにくい」という言葉が、
「この子はあの子よりみにくい」ということを意味するようになったとき、彼女は傷つく。
だけど子どものうちは、「みにくい」だけ、「しあわせ」だけで済むから、
それがほんとうに何と比べて「みにくい」のか、「しあわせ」なのか、考えないから。たぶん。
自分と比べることを覚えるのって、きっと結構大きくなってからだと思うんです。

だけどやがて大きくなって、
共通の絶対的な「しあわせ」っていうゴールがあるわけじゃないと知ったら、
相対的に測る以上は「しあわせ」も「ふしあわせ」も選択できてしまうから、
主観的な判断で私しあわせ、って納得することも覚える。自分の生を愛することを覚える。
そうすると、あらあら不思議、しあわせって「絶対的」なものになってしまった。
すべての幸せが幸せであって、人と比べるものではない、なんて、
人と比べないと言えない台詞。
「しあわせ」っていろんな形があるんだなあ、とか、
子どもに気づかせることが、この童話の目指すべきところだったのかもしれないです。
それが生きていく術だから?
「生きやすく」なるから?

以前引いたけれど、またアンパンマン思い出しちゃいました。
何が君の幸せ
何をして喜ぶ
わからないまま終わる
そんなのはいやだ
不死身のアンパンマンならいいけれど、いつか死ぬ人には残酷です。
私たち、しあわせは相対的なもの、かつ主観的なもの、
だからいつでも誰でも幸せになれる力を持ってる、
なんて槙原敬之みたいなことに気づいてしまった瞬間から、
それが嘘であって、実際にはありえない願いに過ぎないことにも気づいてしまってるから。
ほんとうに相対評価だったら、たとえば神様がつける全人類幸せランキングなんかがあったら、
神様ランキングの上位100人以内に食い込む自信なんか無いから。

「みにくいおひめさま」というお話が、いつまでもいつまでも終わらなければいい。
ちっちゃなハッピーエンドなんか迎えないで。
読みながら、私はそんなことを思って、あんな質問をしてしまったのかもしれません。
お姫様が、「みにくさ」の自覚に苦しみながら、自分なりの「しあわせ」を発見してしまう日が来なければいい。
いつまでもいつまでも「みにくさ」に気づかなければいい。みにくいおひめさまが、いつまでも完全な「しあわせ」のなかに生きていればいいのに。「しあわせは相対的なもの、かつ主観的なもの」なんて、気づく日が来ませんように!!!


そんな埒も明かないことを思いながら、今日も私は肌が荒れたくらいでブルーな気分です。
そろそろビューネかしら、なんて思いながら。
ごめん、みにくいおひめさま。

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