サービスエリア/お正月

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あけましておめでとうございます。
今夜は、昼から降っていた霙のせいか、心持ち空気が澄んで、空が高く見える気がしました。
個人的な感覚かもしれませんが、年末までは、「あーもうすぐ今年が終わっちゃう」という感じで
気が急いたり、何をするにも前のめりでわっしょいわっしょいなのですが、
年があけた途端に、緊張の糸が切れて、ぽかんとしてしまいます。ほんの少し寂しい気持ち。
私はお正月が好きです。
にぎやかな初詣の人混みをよそに、商店街の空に揺れている花餅も、しんと静かな裏通りも、お正月です。

親の実家が静岡なので、子供の頃はよく、いつもより大きく見える富士山が虹色に染まっていくのを、東名高速を走る車の窓から眺めました。
そんなとき、いつも少しだけセンチメンタルな気持ちになりました。
車の窓から眺める富士山もお正月なら、カーオーディオから流れる、父の好きな八神純子や山口百恵や中島みゆきもお正月でした。肌寒い夜明けのサービスエリアもお正月でした。
晴れやかに染まる富士山と裏腹にある、「寂しさ」のようなものは、昭和の女性歌手たちの物悲しい歌声と、サービスエリアに由来しているような気がします。

サービスエリアは、夜遅いのに食べものが食べられるのと、いつもより親の財布が「無礼講」になって好きなものを買ってもらえるから好きでした。味噌田楽が美味しかったです。フランクフルトもよく食べました。ラーメンやカレーも食べました。あんまり美味しくなかったけど、それでもサービスエリアのカレーは特別な感じがしました。富士山の上で水を飲む感じに似ているかもしれません。

サービスエリアの周りはたいてい山に囲まれていました。人が住んでいる感じはしませんでした。「足柄SA」のように地名がついているけれども、本当にそこがどこなのかあんまり実感はできませんでした。だからサービスエリアで周りを見回すときは、いつもなんだか寂しいような、孤島に取り残されているような感じがしました。そのことに、またドキドキしました。


サービスエリアで働いている人たちが、だからどこからやってきてどこに帰っていくのか、とても不思議でした。いつか、母に聞いてみた気がしますが、なんと答えられたのか覚えていません。彼らがサービスエリアで暮らしているような気が私にはしていたのです。レストランや休憩所の裏に彼らの家があるような。深夜でも早朝でもそこに人が居るということは、そこに住んで寝起きしながら働いているとしか子供心には考えられませんでした。だからなんだか、サービスエリアは小さな村のようでした。
人里離れた山の奥に、24時間灯りをともしている小さな村。旅をする人たちが、ひととき立ち寄り、また旅立っていく。通り過ぎる中継地点のような村。
峠の茶屋や、あるいは砂漠の中のオアシス(バグダッド・カフェ?)に似ています。
現実ではないけれど、子供の私が思い描いたその村を、「サービスエリア村」と名づけます。


けれども、子供の私は、お正月の「サービスエリア村」が、嫌いでした。
「サービスエリア村」のお正月は、決して派手ではなかったけれども、いつもは薄汚く見えるトイレも、コーヒーの自動販売機も、コンクリートの階段も、山から流れてくる霧に包まれて、"慎ましい"とでもいうような雰囲気がありました。何より、鮮やかな夜明けの富士山が、色あせたレストランの後ろにそびえたっているのは、お正月らしい光景でした。

けれどもその慎ましいお正月が、いつもよりいっそう、サービスエリアという小さな村に暮らしている人たちを寂しく見せていました。彼らの人生がそこで完結しているように思っていたのです。何が楽しいのだろう、とか、可哀想だな、とか勝手に思っていました。歳をとった人はともかく、若い人が働いているのを見ると、可哀想を通り越して、薄暗い、憎らしい気持ちさえしました。
それは、周囲に店らしい店もなく、田んぼと茶畑特有の丸っこい山に囲まれた古い祖母の家で、仏壇の横にやたら立派な大型テレビをみつけたときの気持ちに似ていました。
言葉にしたら、「悲しくなるからやめてくれ」とでもいうのでしょうか。
私が感じていた、センチメンタルな気持ちの裏側に、「宿命」という言葉が浮かびます。
それは甚だ失礼なことですが、私には彼らの「宿命」が見えているような気がしていて、なおかつ、自分がどこかに宿命づけられているということを忘れていたのです。
私は彼らに対しては、自分はいつも旅人で、自由な気がしていたのです。

けれども私にも、たぶん何かの「宿命」があるのだと思います。誰か、私の上を通り過ぎていく人が、私を見たら、まるで人里離れた「サービスエリア村」に暮らしているあの人たちのように、不自由で寂しい生活を送っている人に見えるのかもしれません。「可哀想」と思われるのかもしれません。
私の人生も、小さな村のような場所で、完結しているのかもしれません。
多分しています。
私は小さすぎて、自分の小さな村と宿命のなかで飛び回っているだけで、「自由」と感じているのだと思います。
本当にそれは、「サービスエリア村」によく似ています。けれども、周りが山に囲まれていて孤島のようにぽつんとあることに、普段は気づかないのだと思います。


だけどいつの頃からか、「サービスエリア村」のお正月が好きになりました。
商店街の花餅と同じくらい、それはささやかで、わびしいけれど。
チクショウ、富士山は大きくて、ここはちっぽけだ。
だけどちっぽけであることを感じるたび、ファミレス店員の笑顔が胸に刺さったり、
排気ガスとアスファルトのにおいが愛しくて泣きたくなったり、
遠くに見えるアパートの灯りのなかに住む見知らぬ人の体温が恋しくなったり、
からだの奥がぼうぼう燃えさかって全力疾走したいような気持ちになるので。
チクショウ、チクショウ、という気持ちが、モーターのように回転して、自分を走らせてくれるので。
それが宿命だろうとなんだろうと、生きてやるって気持ちになるので。
チクショウ、バカヤロー、愛してる。

夜明けの富士山が、今年もサービスエリアを飾ります。
もうすぐ、夜明けが来ます。
初日の出に、「バカヤロー」って叫んでやりたいと思っています。

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コメント(1)

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