2005年6月アーカイブ


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紫陽花色の空です。
朝の日差しが強くなってきましたね。
にじむ汗も、よい季節です。
身辺あわただしく、ブログもしばらく日が開いてしまいました。

「無駄なこと」を考える時間がなかったなあ、と
一週間を振り返って感じます。
なんかそれって充実している生活っぽいですが。
「無駄なこと」っていうのはどういうことかというと、
自分に直接的に関与しない事柄、でしょうか。
自分にとって差し迫っていないこと。
もしくは自分が答えることを期待されていない問い、とでもいいましょうか。
たとえば「なんで海はうみって言うんだろうなあ」とかそういうことですね。
「あの人生きてて楽しいのかなあ」とかそういうことですね。ほっといてよって言われますね。

それって別の言い方とすると、
「他人の問題を考える」ってことかもしれません。
さらに言い換えれば、「頼まれてもいないおせっかいを焼く」ということかもしれませんが。

で、「他人の問題を考える」ということが、他人から「要らないよ」って言われたとしても、
やっぱり他人のことを考えていたいなあと思います。
それはお役に立ちたいとか思いやりとかでなくて、美意識として。

他人におせっかい焼くのが美学っていうのもどうなんだろうと思いますけれど。
「ほっといてよ」って言われても、「ほっとけないよ!」って追いかけるくらいの、
願うべくは汗だらだら流しながら追いかけるくらいの、
暑苦しさを持っていたいです。
夏ですしね。

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四つ階段を駆け上がって ドアを開けて覗き込ば
その眠たそうな空気が好きだ
調子がよければいいね そんな気配を感じたなら
陽気にお邪魔もできるさ
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すてきな知り合いの人から、すてきな歌詞が送られてきていました。
メールにcopy&pasteされていたその言葉を、私もコピペで、皆さんにお届けします。
なぜって、そんな風に歌詞が届くのは、うれしいものでしょう。
うれしい気持ちも一緒にコピペできたらよいですね。

今朝、遠くにいる、しばらく会っていない友人に、ふと思い立ってメールをしたところだったのです。
その人が昔教えてくれた、少し物悲しい歌の話を。
帰ってきたら、別の人から別の歌が送られてきていました。
世界は回っているんですね。
どこか、自分のあずかり知らないところで、確かに。
一周したかもしれないけど、もう少し回してみたいから、皆さんに投げます。

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ドアの外で思ったんだ あと十年経ったら
何でもできそうな 気がするって
でもやっぱりそんなの嘘さ
やっぱり何もできないよ
僕はいつまでも 何もできないだろう

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事実

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ものは近くに寄りすぎると、ピンボケするんですね。
花の写真を撮るときは、もっともっと寄りたいと思ってしまって、いつもうまく撮れません。

車窓からの風景は、遠くの山はきれいに見えるけど、線路のそばの花はよく見えない。
そんなことを言う人もいますね。

これは全部事実を言っているだけで、何かの隠喩では、ありません。

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大事なことはみんな月カドから教わった。

なんていうのは冗談ですが。
古い荷物を整理していたら、「月刊カドカワ」が何冊か出てきました。
頁を開いてみなくても覚えているのは、
岡村靖幸や忌野清志郎の特集とか、しりあがり寿の挿絵とか、
たまのイラストエッセイ、あと岡崎京子の漫画。
ちなみにいま手元にある1993年5月号は「槙原敬之特集―『ぜんぶ僕だからしょうがない』」です。
「岡崎京子からいとうせいこうへの52の質問」なんて記事があったりもして、胸が騒ぎます。
当時は、大槻ケンヂの『グミ・チョコレート・パイン』が連載していました。
仲井戸麗市もエッセイを書いているし、ミュージシャンの文章が多かったんですね。
小室哲哉の「TMNの再生」という文もあります。

私がこれを買って読んでいたのは、小中学生のころだったから、
ちょうど90年代が始まるか始まったかという頃です。
その中にいるときは、子供だし、前後のこともわからないし、
どんな時代かなんて認識していなかったけれど、
2000年代が半分過ぎようとしている今、改めて見返すと、
なんだか眩しいような、苦いような気持ちが沸き起こります。

いまドリカムを聴くと、なんだかモジモジしてしまうというか、
「思春期」という言葉の気恥ずかしさそのままに、照れてしまいますが、それとは違う。
懐かしいのでもなく、きらきら輝いているのでもなく、
なぜだか胸が痛みます。
最近すっかり痩せたサンプラザ中野を見たときの気持ち、とでも言いましょうか。

そこに登場する大人たちが、その当時も一生懸命がんばっていて、
何かきらきらするものを追いかけていたんだということが、わかるからかもしれません。
今は駄目だというわけじゃありません。
確かにいま、私たちは岡崎京子の新作を読むことはできないけれど。
岡村靖幸はずいぶん太ってしまったけれど、まだ踊れるし、
いとうせいこうや忌野清志郎は今だって大活躍しているし。

この苦い気持ちの正体はなんだろう、と考えてみたのですが、
そこに「10年間」という時間が、リアルに流れているからかもしれない、と思いました。
実際以上に短くもなく、長くもなかった10年間。
10年間分の、いろんな人の「一生懸命」と、10年間分の変化。
きっと、この当時、ここに載っている大人たちは、10年間でもっともっと遠くへ跳ぼうとしてた
んじゃないかと、そう感じます。ずっと遠くへ、もっとキラキラしたところにいけると信じて、がんばってた。
だけど10年間分相応なんです、当時リアルタイムで私が読んでた月カドと、現在の距離が。
相応っていうのも変かしら。なんでしょう、「10年間ってこんなものか」という気持ち。
よく、「歳をとればとるほど、1年経つのが速くなる」なんていいますが、
確かにそう感じるときもあるにはあるのだと思いますが、
時間の速さは、ほんとうはいつも同じ。
リアルな時間のスピードを感じるから、苦いのかもしれない。

私はまだ20年と少ししか生きていないから、
時間を10年ごとに区切って、「こんな時代」「あんな時代」とかって、
相対化したり、名前をつけたりすることはできない。較べるものがないから。
だけど、私の目がまともに開き始めて、大人たちのがんばってる姿を見れてこれた10年間は、
まだ「90年代」しかないので、やっぱり少し、特別です。
そして、その「90年代」は、実際の10年間以上に遠くに跳べた時代ではなかったみたいです。
「楽しい時間は速く過ぎる」なんて、そんなものではなく、
ごく当たり前に10年間=3650日が過ぎた時代だったのかもしれない。
そんな感想が、この苦い気持ちの正体だと思います。
だって、これから10年間で、ずっと遠くに跳ぼうとしているからね。やっぱり私たちも。

華やかだったと聞く「80年代」も、80年代を生きた人にとっては、やっぱりリアルに10年間なのかしら。
先輩諸氏に訊いてみたいところです。

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友人に電話をかけて、たまたま出なかったので、思わずそんな親父ギャグを言ってしまいました。
言ってから気づいたのですが、
「電話にでんわ」って、よく考えたら、すごく悲しいギャグですね。
ギャグが悲しいというより、そんなギャグを言っている情景が悲しいです。
だって、電話に出てもらえてないのに。
いくら待っても、鳴り続けるコール音を聴きながら「電話にでんわ」。
「この番号は現在使われておりません」といわれて「電話にでんわ」。

ちょっと悲しすぎます。

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母が綺麗

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家に帰ったら、母が綺麗で泣きたくなりました。
新しいパジャマを着ていました。

何故なんでしょうね。
あと、「すてきな友達がいる」とかも、泣きたくなります。

私を泣きたくさせる皆に、花を贈りたい。
ちゃんと花屋さんで、午前中に買った、水のしたたるようなのを。
花を贈る理由は、うまい具合に言い訳できないですね。
花を贈るのは、だからちょっと恥ずかしいんですね。あなたのせいで私は泣いちゃうってことだから。

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今夜は、「永遠のアイドル」という曲を聴いています。
中学生のころ、聴いていた曲です。
タイトルから、少し陽気な曲を想像されるかもしれませんが、
エレクトーンみたいな2音だけの、シンプルで物悲しい曲です。
当時、なんでこんなに悲しいメロディなのかしらと考えて、
CDのジャケットにキリストの絵が描いてあったから、
きっとキリストの曲だから悲しいんだろうと勝手に納得していました。

どうしてそんな風に納得したのか分からないですけど。
ちなみに、このCDアルバムの一曲目は「地球より遠い」という曲で、
やっぱり物悲しいメロディと、壮大なんだかふざけてるんだか分からないタイトルとから、
これもキリストの曲なんだろうと勝手に頷いていました。
そのころは、まだ聖書も読んだことがなかったから、
なんだか私の中では、この2曲のイメージとキリストが結びついてしまいました。

アルバムのタイトルは「Low Power」。
ご興味のある方はよかったらどうぞ。
そして、キリストの曲だったかどうか教えてください。

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恥ずかしいタイトルですみません。石神夏希です。

ぺピンがアトリエを持ちました。
まだ名前は決まっていませんが、はじめて自分たちの場所を持ちました。
大掃除をして、ピカピカとはいえないものの、落ち着いて珈琲が飲めるくらいの部屋にはなりました。
えい、この愛しい部屋になんて名前をつけてやろうか。このこの。

演劇や世間一般に「物好き」といわれる諸々のことをやってらっしゃる多くの方がそうだと思いますが、
自分たちの場所を持つことって、とても難しいです。ことに東京近辺では。
ヴァーチャルな「場」を持つことが普通になってきて、それでもなお
こういった場所を持つことがどんな意味を持つのか、
たぶんいろんな人が「意味あるよ〜!」って言ってるんですけど、
からだで確かめてみたいと思います。
今日、ひとつからだで覚えたのは、
掃除がこんなに楽しかったのは生まれて初めてかもしれないなあということ、でした。

そして今ふと思ったのは、
これって手帳や時計に似ているなあということでした。

昨年まで、腕時計はほとんどつけず(無意識にはずして、すぐ失くしちゃうから)
手帳は落書き程度にしか使っていなかったのですが、
今年から、どちらも毎日使っています。一日のなかでかなり頻繁に見ます。

時間は目では捉えられないから、
手帳や時計という形で表現されているのであって。
そこにあるのは「時間」そのものではないんですけど、
まあそういうことにして、時間を捉えた気になる。

場所も、最初から場所があるんではないのかなと。
ちょっと大げさだけれど、やっぱり「場」っていうのは先にあって、
それを捉えることが難しいから、物理的な、リアルな形で表現する。
地球上全部の場所がそうだとは言わないけど、
少なくともこの部屋はそうなんだろうな、と思いました。
そうであってほしいな、と。

だけど危ないのは、時計や手帳に管理されてしまって、
そこに時間があると思い込んでしまうこと。次に何をするのか、手帳や時計を見ないと分からない。
場所も、場所があるからそこに「場」があるって思ってしまわないように。
捉えきれない「場」を、捉えようとして伸ばす手が、「場所」をつくってる。
おしゃべりを続けて、つい何時までも一緒に居てしまう気持ちや、
会いたいって思って「またね」という言葉が、場所をつくってる。
家だって、家族が家をつくってる。だけど家がつくっている家族は、不意打ちされると崩れてしまう。
恋人もそうかもしれませんね。
約束だけじゃ駄目ですね。約束も大事ですけれどね。

何の話だか分からなくなってしまいましたが、
もう一杯、ここで珈琲飲んで行きたいなって思えるような部屋にはしたいな、と思いました。
今日は帰りたくないなって言えるような、そんな関係にはなりたいです。
こんな関係に、まだ名前はつけられないのだけれど。
えい、このこの。

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迷子になる

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今日は、雨の中を道に迷ってしまいました。
1時間ほどさまよって、結局目指していたお店につけませんでした。
雨にそぼぬれて、トイレを我慢して、ハイヒールはずくずくで、眉間に出来ちゃった吹き出物が痛かったです。
まったく、陰気なマヌケでした。

迷子になるには体力と気力が必要だと思いました。
鬱病になるのは、悩む体力がある人という証拠だって、えらい先生が言ってました。
迷いつづけるのも悩みつづけるのも、停止していないものね。

今日の迷子にはオチがあって、
結局探し続けていたお店は、潰れていたのでした。
目的地が最初から失われていたなんて。
これぞ本当の迷子ですね。

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