『レター教室』について、
「じりじり、やきもき/レター教室」という記事を書いたんですけど、
実際に、これについて知人からメールをもらいました。
その中で、印象的だったフレーズを、本人の許可を得て、抜粋引用します。
ちょっと長いかもですけど、おもしろいのでお付き合いください。
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そもそも自分が出した手紙が相手にいつ届くのかすらアバウトだった。
手紙はやっぱり遠距離の相手に送ることが多かったから。
投函時間によっては到着は3日後か、週末を挟んだらもっと?みたいな。
宅急便が発達するまでは、郵便局の配達期間ってかなりばらついていたと思う。
そんなわけだから、自分が出した手紙の返事がいつ来るかなんていうのは、
だいたい忘れた頃にやってくる、くらいの感覚だった。
送受信ボタンを押してメールの返事を確認するようには、郵便受けをチェックはしなかった。
だから、返事はいつもDMの束の間から「思いがけず」って感じで見つかる。
(中略)
でも、だからこそ、手紙が届くってことは少し特別なイベントだった。
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このメールをもらってから、「待つ」ということを考えていました。
私は結構、短気で、いつも、何かが起きたり
何かの結果が分かるのを待ちきれずに苛々してるようなところがあります。
たとえば、これは最近、気がついたことなんですが、
恋愛においては、付き合ってる相手に対するハードルを(心の中で)すごく上げてしまうことが多い。
でも本当は、そんなに高い条件を相手に求めているわけではないんです。
実際、付き合う前はそんなにハードル高くない。
どうしてこんなハードルを上げてしまうのかなあと考えたところ、分かったのは、
私は無意識のうちに、「相手に失望するとき」を引き寄せようとしていたみたいなのです。
じゃあ何故、相手に失望するときを引き寄せたいのか?
それは、「結論」を待てないからです。早く答え(結末)が見たいからです。
自分でそのことが分かったときは、愕然としました。
そんな理由で、恋愛関係をぶち壊しているとは信じられなかったからです。
「待てない」。
別の言い方でいえば、自分で関係をコントロールしたい。
たとえそれが「恋愛関係の終わり」という形であっても、
自分の力で、結末を「捕りに」行きたい。
自分のコントロール外のことが起きるのを、待つことが出来ない。
生易しいことじゃない。
『ゴドーを待ちながら』って待つだけのお芝居が出来るくらいだもんね・・・
「待つ」というのは、自分の意志や力ではコントロールできないことを、
そのままに受け容れる、ということなのかな、と思います。
だからこそ、「それ」が自分の目の前に姿を現したときに、
「思いがけず」という驚きが生まれる。
でもそれは、まったく予期してなかったわけじゃない。
自分が書いた手紙の返事ならなおさら、届く可能性は、考えていたはず。
それでも、期待しない。ある意味では、「待たない」。願わない。
だけど、現れることを望んでいる。のぞみ。
祈り、という言葉だと、誤解されてしまうかな。
届いたらうれしいけど、届かなくても構わない、って気持ちに限りなく近いけど、
そうして言葉にしてしまった途端に、「届かない」ってことを肯定してしまった途端に、
ほろほろと崩れてしまうような、繊細でもろい、ねがい。
なんだか、卯の花みたいな感触の。
否定も肯定も、言葉にできないような、ねがい。
待っていたことを、忘れてしまうような「待つ」。
だけど、ちゃんと思い出す。
いつも見えている。見えているけど、見ていない。
だから、届いたときは、知っていたのに「思いがけず」発見する。
同時に「私は知っていた」と思う。
手紙を出している側も、そう。
メールなら、送信ボタンを押した瞬間に届いている、
届いた瞬間を、(手触りはないけど)確認することができる。
でも、手紙はいつ届くか分からないし、その瞬間を見届けられない。
(今、「郵便的」って言葉を思い出したけど、不勉強なのでわかんないや)
だから、届くのを「待つ」。
私の知人もメールで書いているように、以前は日本の郵便も不安定だった。
私は昨年、中国から日本の友達へハガキを出したけど、
6通出して6通、全部、どっかへ消えてしまいましたよ。
中国の郵便、恐るべし。
私たちが、手紙というものに出会う瞬間て何が起きてるのかな。
そしてその手紙を読む、って、どういう行為なのかな。
そう考えたら、
「待つ、待たれる、手紙」 >>> 「待たない、待たれない、手紙」
「ねがい」
ということを心に置いて、『レター教室』やりたいな、と思いました。
なんかさ、手紙ってやっぱ、スペシャル感あるじゃん。
てうちの妹が言うような、その気持ちを、形にしたいよ。
スペシャル感っていいね。なんか響く。
僕もスペシャル感を出していきたいです。