仕事で今日は研修に行っていました。
(わたくし、国際協力のNGOで働いています。)
事業評価に関しての研修で、それぞれの事業担当者が
海外の支援活動の事例を使って評価をするというもの。
各々の発表では、カタカナ語が溢れる溢れる溢れる。
「エバリュエーション」とか。(=「評価が」の意)
「リプロダクティブ・ヘルス」とか。(=「妊産婦保健」の意)
「コミュニティ」とか。(=「村」ですね)
「ディストリクト」とか。(=「郡」ですね)
極めつけはビジュアル・エイド(Visual Aid)。
これなんだと思います?
これ、途上国で紙芝居を上演することなんですって。
知らなかった。
なぜそんなにまでしてカタカナ語を多用するのか。
カタカナ語を使えばインターナショナルなにおいがするのだろうか。
紙芝居を上演することを示す唯一つの言葉だろうか。
素直に「紙芝居を見せるんです。」って言った方が伝わるのに。
そう思いました。
しかし、そんな私もかつてはカタカナ語族でした。
公演の反省会で、舞台美術さんの物を創る力にあこがれて、
ついつい、
「美術さんはクリエイターじゃないですか。自分はクリエイターではないですから。」
と、発言してしまい、美術さんからは、
「クリエイターって言うけど、舞台美術ですよ。下ちゃんだって、
役者であり舞台監督であり物作りをしていることに変わりはないよ。」
と返された時、私は私のカタカナ語の多用をやめようと思いました。
(それまで私は「グルーヴ感」とか良く使っていました)
とは言え、最近の日本の音楽の歌詞もまた日本語使用が露骨です。
そういう演出をしているにおいがなんだか野暮ったく感じます。
何でも日本語に直せば格好いいわけではないのだと思います。
自分が言いたい事や伝えたい事を、本当に伝えるためには、
それにふさわしい言葉が、もっと言うとふさわしい唯一つの言葉が
あるのだと思います。
それが、カタカナ語の時もあるし日本語のときもあるでしょう。
カタカナ語に頼るのではなく、かといって日本語回帰の流れに
身を任せるのでもなく、伝えたい事をきちんと伝えられる言葉を
探すこと。生きていく上で大切にしたいことであります。
激しく同意します。「これっきゃない言葉」を、ポンと言える人って
かっこいいですよね。たまらない魅力を感じます。
自分が「何故それが好きなのか」あるいは「きらいなのか」を
うまくことばで説明できません。なのでいつも表情と、身振り手振りで
その不足分を補っているのですが、電話やメールだとそれができません。
こまったことです。
失敗と成功を含めた経験や体験も効いてきますよね。
経験していることは、いろいろな言葉を知っていること
よりもよっぽど大切だと思うし、ベタな言葉なんだけど、
体験を通じて出てくる言葉の突き抜け方は心地いいものが
ありますよね。
経験・体験を含めた言葉の選び方、大事にしていきたいと
思います。