植物の成長ではなく土を観る視点

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3月8日から19日までタイに出張に出ていました。
今回は農村部にずっと滞在していました。いま、タイは乾季です。
青々とした風景というよりも、乾いた茶色い風景が広がっています。

今回、滞在していた農家は有機農業を営んでいます。
この農園にはいくつかの野菜の畝が並んでいるのですが、先日、
ここに別々の液肥(液体状の有機肥料で果実を発酵させた汁など)を
撒いたそうです。どの液肥が効果があるかを見るのだそう。

「それならば、同じ種類の野菜を植えて成長の善し悪しを
観ていけば、どの液肥が有効かわかるはず」

理科の実験よろしく、日本人(というか非農業者)はついついそう考えて
しまいがちです。

でも、農家さんが言っていたのは、

「何を植えてもいい。見るべきところは土の変化。土の色、土のにおい、
土の感触さえわかればそれでいい。野菜によって好きな肥料の種類も
違うから、観るべきところは植物の成長ではなくて土なのだ。」

この視点の差が、農に携わるものの素養というか、持つべき資質の
ような気がしました。


今日から芝居(columbaのシンデレラ)の稽古に復帰しました。

今回も役者をさせていただく機会をいただきました。

稽古で大事にしたいのは、表現として何が表れているのかではなく、
役者個人、役者同士の関係性をどれだけ豊なものにしていけるか。

がんばっていきます!

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コメント(2)

昔の自転車置場や団地の管理人のスーペースには、
一斗缶の焚き火や小さな焼却炉がありました。

幼稚園児だった私は、団地の焼却炉の灰を使って、
ピッカピカで真ん丸の泥団子づくりに夢中でした。
灰の粒子は細かく、生乾きの泥団子にまぶして擦るとピカピカになりました。

いつの頃からか、焚き火や焼却炉は見なくなりました。
現在の泥団子フリークたちは一体どうしているのか心配です。

いまは灰の成分が安全ではないみたいで、
焚き火や焼却炉が許可されにくいようです。
燃やすものが変わったからでしょうか。

灰は再生の象徴でした。けっこう昔からだと思います。
フェニックスは灰になり、灰から生まれますし。

枯れたように見える枝からは、新芽と花が出てきます。
一方的に命を奪った猟場からは、新しい小さな命が出てきます。
湧くように出てくる命をフェニックスの物語にするなんて素敵です。
物語にして理解しないと不安になるくらい、
湧き出てくる命のそばにいたのだから。

土と水を混ぜた泥と、木を燃やした灰で、団子。
土づくりみたいですね。

あおぐさん、コメントありがとうございます。
僕の家にも焼却炉ありましたよ。

灰は農業やる上でもすごくて、もういろんな灰が
あるんですよ。米の籾殻なんかは灰にはせずに
不完全燃焼させると苗作りに最高なんですよ。
椰子の繊維は灰にしてそのまま畑にまきます。

ぜんぜん話は変わるんですが、農業ってどこまで
行っても自然ではない状態を作り出すので、自然
破壊の一端を担うことになってしまうんですよね。
有機農業とか、自然農業とか「地球にやさしい農
業」はたくさんあるけど、そのどれもが、自然を
都合よく操作しているんです。

自然との共存ってよく言いますけど、共存しよう
と思ったら、人間はもっと多く駆逐されてしまう
でしょう。

百姓と呼ばれる人たちと付き合っていると、
すごく哀愁を感じます。それはきっと、破壊者の
自覚と、それでも喰わないと生きていけない人間の
弱さとのせめぎあいにあるんだなと思います。
それで、毎日、鍬を下ろしているのだから、すごい
覚悟を持った人たちですよ。

でもね、そこに生命が生まれるっていうことは、
本当に救いだなって思います。生命の誕生自体が
すばらしい物語(奇跡)だと思います。