ナイフを捨てることについて

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下ちゃんがタイへ旅立った。
といっても彼にとってはすでに、もうひとつのホームなのかもしれない。
稽古場やミーティングに、成田から直行してくることも少なくない。
(タイでクーデターがあったときは、帰国日になかなか稽古場に現れなくて、みんな焦った)
チャンスがあれば向こうでブログ書くって言っていたけど、
彼が滞在するのはたいてい都市ではなく農村地帯みたいなので、実際どうなるか分からない。
留守の間は残りの3人で盛り上げていきます!!!


最近、「悲しみも煩悩で云う『怒り』の一種だ」という話を読んで、
以来何かにつけそのことを思い出す。
つまり、何かに対して「いやだなあ」とか「遠ざけたいなあ」と思う気持ちが、
仏道における煩悩の『怒』に相当するので、悲しみという感情も、その内に含まれる、そうだ。
(私の理解を限定的に取り出しただけなので、厳密な意味で正しくないのは、ご容赦ください)

その説に則って観察すると、私は随分、『怒』の煩悩が大きいと思う。
それを小さくしたいと年々心がけているのだけど、昔はやたらとトンがっていた。
いやー、ナイフだったよねえ。という感じだ。

そんな自分だから、
最近ある知人が、過去の出来事について話してくれたとき、
その中の『怒』の感情にどうしても敏感になってしまった。

その人は以前、将来を考えていた恋人に「裏切られた」ことを忘れられていなくて、
「そのせいで」酒に溺れた結果、かなりひどい目に遭って、
その際に、つるんでいた友達たちからも「裏切られ」、
以来、すべての友達との縁を切り、ある意味では更正して今に至る。のだけど。

この人は悲しいんだなあと思った。許せていないんだなと思った。
それはつまり、先の話に則れば、『怒』っているということだ。
怒るのって、すごく辛い。胸が痛いし苦しいし、お腹も変な具合になる。
時には頭がサアーッと冷たくなって眩暈がすることもある。視界がぐるぐる回ることもある。
ものすごく体力を消耗する。自分をすり減らす。

で、どうしてそんなに『怒』ってしまうのかといったら、その人が彼らを、
その人を裏切った彼らを本当に信じていたからだと思う。それか、信じていたかった。
だから逆に言えば、この人は、他人を信じてしまいやすいのだ。
他人を愛してしまいやすいのだと思う。
言い換えれば、誰かを愛したい、信じたい人なのだと思う。
だから期待した人に対して、無防備に心の柔らかい部分をさらしてしまって、傷ついてしまう。

そして、その人がまだ『怒』っているのはきっと、その人がまだ誰かを信じたいからだと思う。
誰かを心から愛して、信じたいんだと思う。
結局、「誰も信じられない」という考えは、「誰かを絶対的に信じたい」という考えと同じ軸上にある。

そういう全てを諦めれば、その人はもう『怒』らなくて済むはずだ。
そもそも、愛することと信じることは同じことじゃない。
「愛してるから信じてたのに」って言われても、それは完全な我儘だ。その人の勝手だ。
愛してるけど信じてない、という関係だって勿論成立する。
それなら、裏切られたって『怒』らなくて済む。


私は、傷ついたり『怒』ったりするのは、全部、期待した人の自己責任だと思う。
だけど、その人の「誰かを絶対的に信じたい」って気持ちは、否定したくない。
私も今でも、ちょっとだけそう思っているから。
だけど、自分が誰かを裏切ってしまうように、他の誰かも自分を裏切ってしまうことがある。
「この人は自分を裏切るかも」って思うのは悲しいようだけど、それでも相手を愛することは出来る。
裏切られても別にいいや、って思えないなら、すぐにその場を立ち去ればいい。
自分を傷つける人を、愛し続けなくちゃいけない理由も別に無い。
常に、選択の自由はある。たいていの場合は。
自分の気持ちは自分ではどうにもならないもの、って思い込むから、悲劇になってしまう。
怒ったり怒らなかったりする選択の自由が自分にはある、と分かるところから、自己責任が始まる。
というのが私の考えです。

何より、一番深刻なことは、
悲しみや怒りのナイフは、他人じゃなくて本当は自分を傷つけているのだ。
自分を傷つけることが、結果的に他人を傷つけるのだ。
だから、その人にも、出来るだけ早く、そのナイフを捨ててもらいたい。
私はそのために、何もしてあげられない。自己責任だからね。
でも、その人が私にこの話をしたのは、私がその人にちょっぴり裏切られたとき、
何も変わらなかったからじゃないか、と思う。

こんなこと言うとキモいけど、ナイフな私は、ペピンの仲間たちにちょっと変えてもらったと思っている。
だからたとえ自己責任でも、やっぱり誰かが居てくれると、力になることもあるんだろうと思う。
相手が居れば、愛することと、信じることの練習が出来るから。
「愛する人を信じること」じゃないよ。愛することと、信じること。別々。


そんな感じで、今も懐にドス、じゃなかった、ナイフを呑んでいる人たちへ。
そのナイフを捨てるように、せめてそれで自分を傷つけることのないように、心から願っています。
私は、あなたのナイフに関係ないけどさ。
関係なくても、願ったっていいでしょ。私の勝手でしょ。カラスの勝手でしょ。カアカア。

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コメント(2)

最近まで、「怒」の固まりみたいな子と一緒のグループで作品を作ってました。
その子は気分がいいときはすごく感じがいいんだけど、プロジェクトが進行するにつれて手に負えなくなってきて、私含め彼女の「怒」の対象になったメンバーはどうしていいかわからなくなっておびえてしまい、リハーサルも機能しなくなって、で、ある日、日本人らしく悪くないと思っても謝ってみよう、と思い立ちました。
「怒」に歯止めが効かなくなってる彼女に「本当にごめんね」と言った瞬間の彼女の目にあふれた悲しみに、私もとても悲しくなりました。彼女は本当に「悲しい」人だったんだなあ。
実際終わった今だから俯瞰できるけど、「怒」の渦中にいるときは生きた心地がしなくて、うまく対話できなかったことが悔やまれます。

8月14日着の便で日本に帰ります。
今度はほんとの本帰国です。
ペピンの皆と早く話しがしたいです。

久しぶりです!

相手がしんどいときは、折れてあげられればいいよね。と思うのです。
でもそれも、なかなか難しいよね。
表面的な正しさにこだわっていると、こういう優しさは、発揮できないよね。えらいね。
何が正しいかは、本当に分からないよね。

自分を損なうと、結果的に他人を損なうんだと思います。
自分を損なわないのは、だから自己責任なんだろう。
それでも誰かに助けてもらうのは、すごく癒されるよね。
彼女は、誰かに謝ってもらって、少し救われたといいな。