以前にも同じようなことを書いたんだけど、
同じネックレスをまた失くして、そしてまた発見した。
正確に言うと、前回(紛失1回目)ブログに書いたときから今回までの間に
さらに一度失くしている。実に3回目です。
2回目は、自然に糸が切れてペンダントトップだけ紛失したのだけど
(↑前回記事の写真にある、金の円の部分)
排水した後のバスタブの中で、奇跡的に流れずにいたのを発見したのです。
それ以降、切れにくい金のチェーンに替えて、身につけていたのですが。
もう今度は、「みつからなくてもいいや」と思ったのです。
とても気に入っているし、自分にとって特別な意味を持っているネックレスでした。
贈り物とかではなく、自分で選んで自分のために手に入れたものだし、
ある意味、自分の心の中心を、象徴的に首からかけているような。
だけど今回は、失くしたというより、ネックレスが自分でいなくなったのかな、と思って。
人でも、ありますよね。自然と縁が切れるというか。別のところへ流れていく。
潮時というか、何か別のものをみつけたり、手に入れたりするタイミングなのかな、と思って。
前回(2回目)、糸が切れて紛失したときも、
偶然にしては出来すぎたようなタイミングで、他にも色々と失くした日だったのです。
そのくせ、ブラックホールのような喪失感の中から、
こいつだけが生還したのは、何かしら意味深い気がしたのでした。
迷信とか、ジンクスとか、あまり信じないんだけど
生活の中で起きるシンクロニシティはわりと信じる方です。
で、さっぱり生まれ変わるというより、自分にとってこれはまだ学ぶことがあるんだなと、
腰を据えてしっかりこの課題に向き合っていこうと思って、チェーンに替えたのでした。
で今回失くしたので、これはそろそろ卒業かな? なんて思っていました。
ところがまた還ってきた(まだ手元には届いていないのですが、発見してくれた人がいた)ので、
そう簡単には、終われないようです。
だけど今回紛失して、「失くしてもいいや」と思えたのは2回目からの大きな変化で、
あまり執着していないとか、流れを受け容れるとか、そういう状態になっているのかもしれない。
ペピン初期の『蜜の味』というお芝居で
「失くしものなんて、これからまだまだいっぱい失くすのに。」という台詞があったり
ペピンのお芝居は、いつも誰かがいなくなるお話だよね、と言われたりするのですが
自分にとって「失くしもの」というテーマ、さらにいえば、
「生活という営みを続ける中で、失くしものとどう折り合っていくか」という問題は
結構デカイです。結局ずっとそれを考えているかもしれない。
それは、死んじゃった犬とか、もう全然好きじゃない初恋の人とか、
外国の寝台列車に忘れてきたパジャマとかも、全部。
喪失感というのがいつも先にあって、
その上で夢を見たり恋をしたりご飯を食べたりしている。という気がする。
もう思春期から、もしかしたら子供の頃から、ずっと。
それが幸せかどうかを考えることが出来ないくらい、当たり前になってしまっている。
だから何かを失くしたときはいつも、「ああ、また」と思う。
またこの感じだ、とか、この感覚知ってるよ、って思うんだけど、
それは喜びとか満足とかよりずっと馴染み深くて、自分の中心に戻ってきたよって感じがするんだ。
そのくせ毎度、けっこう悲しいんだけど。
あ、このペンダントの金の輪っかも、真ん中が空洞ですね。
皆さんはどうですか?
失くしものには慣れてますか?
「ポケットの中にはビスケットがひとつ、ポケットをたたくとビスケットが2つ」
という歌があるけど、なんかビスケットって幸せみたいなもののこと、という気がしていて、
だけど実はポケットに穴があいてて、ビスケットのかけらがぼろぼろこぼれ落ちている気がするんだ。
ビスケットをたたいて増やして、そのたびに穴からこぼれて落ちていくものがある。
こぼれていくビスケットのかけらは、しょうがないじゃん、とはまだ言えなくて。
まだ、というか、いずれ言えるようになるとも思えなくて。
「何も失くしてない」という境地に至る、みたいなことが答えなのかな。
失くしたと思ったら還ってくる、このペンダントは
「失くすけど、大丈夫」って伝えてきてるような気もする。
失くした、というのがオチじゃない。
喪失感は喪失感のままで、だけどいずれ、ちゃんと還ってくるから。そんなことを。
この感じが、消えてなくなることもいつかあるのかな。全然、想像つかないや。
└ 。。 05/24
└ さちこ 05/30
└ あずき 05/30
└ 石神 夏希 06/01
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