2010年5月アーカイブ


以前にも同じようなことを書いたんだけど、
同じネックレスをまた失くして、そしてまた発見した。
正確に言うと、前回(紛失1回目)ブログに書いたときから今回までの間に
さらに一度失くしている。実に3回目です。

2回目は、自然に糸が切れてペンダントトップだけ紛失したのだけど
(↑前回記事の写真にある、金の円の部分)
排水した後のバスタブの中で、奇跡的に流れずにいたのを発見したのです。
それ以降、切れにくい金のチェーンに替えて、身につけていたのですが。

もう今度は、「みつからなくてもいいや」と思ったのです。
とても気に入っているし、自分にとって特別な意味を持っているネックレスでした。
贈り物とかではなく、自分で選んで自分のために手に入れたものだし、
ある意味、自分の心の中心を、象徴的に首からかけているような。
だけど今回は、失くしたというより、ネックレスが自分でいなくなったのかな、と思って。
人でも、ありますよね。自然と縁が切れるというか。別のところへ流れていく。
潮時というか、何か別のものをみつけたり、手に入れたりするタイミングなのかな、と思って。

前回(2回目)、糸が切れて紛失したときも、
偶然にしては出来すぎたようなタイミングで、他にも色々と失くした日だったのです。
そのくせ、ブラックホールのような喪失感の中から、
こいつだけが生還したのは、何かしら意味深い気がしたのでした。
迷信とか、ジンクスとか、あまり信じないんだけど
生活の中で起きるシンクロニシティはわりと信じる方です。
で、さっぱり生まれ変わるというより、自分にとってこれはまだ学ぶことがあるんだなと、
腰を据えてしっかりこの課題に向き合っていこうと思って、チェーンに替えたのでした。

で今回失くしたので、これはそろそろ卒業かな? なんて思っていました。
ところがまた還ってきた(まだ手元には届いていないのですが、発見してくれた人がいた)ので、
そう簡単には、終われないようです。
だけど今回紛失して、「失くしてもいいや」と思えたのは2回目からの大きな変化で、
あまり執着していないとか、流れを受け容れるとか、そういう状態になっているのかもしれない。

ペピン初期の『蜜の味』というお芝居で
「失くしものなんて、これからまだまだいっぱい失くすのに。」という台詞があったり
ペピンのお芝居は、いつも誰かがいなくなるお話だよね、と言われたりするのですが
自分にとって「失くしもの」というテーマ、さらにいえば、
「生活という営みを続ける中で、失くしものとどう折り合っていくか」という問題は
結構デカイです。結局ずっとそれを考えているかもしれない。
それは、死んじゃった犬とか、もう全然好きじゃない初恋の人とか、
外国の寝台列車に忘れてきたパジャマとかも、全部。

喪失感というのがいつも先にあって、
その上で夢を見たり恋をしたりご飯を食べたりしている。という気がする。
もう思春期から、もしかしたら子供の頃から、ずっと。
それが幸せかどうかを考えることが出来ないくらい、当たり前になってしまっている。
だから何かを失くしたときはいつも、「ああ、また」と思う。
またこの感じだ、とか、この感覚知ってるよ、って思うんだけど、
それは喜びとか満足とかよりずっと馴染み深くて、自分の中心に戻ってきたよって感じがするんだ。
そのくせ毎度、けっこう悲しいんだけど。
あ、このペンダントの金の輪っかも、真ん中が空洞ですね。
皆さんはどうですか?
失くしものには慣れてますか?

「ポケットの中にはビスケットがひとつ、ポケットをたたくとビスケットが2つ」
という歌があるけど、なんかビスケットって幸せみたいなもののこと、という気がしていて、
だけど実はポケットに穴があいてて、ビスケットのかけらがぼろぼろこぼれ落ちている気がするんだ。
ビスケットをたたいて増やして、そのたびに穴からこぼれて落ちていくものがある。
こぼれていくビスケットのかけらは、しょうがないじゃん、とはまだ言えなくて。
まだ、というか、いずれ言えるようになるとも思えなくて。

「何も失くしてない」という境地に至る、みたいなことが答えなのかな。
失くしたと思ったら還ってくる、このペンダントは
「失くすけど、大丈夫」って伝えてきてるような気もする。
失くした、というのがオチじゃない。
喪失感は喪失感のままで、だけどいずれ、ちゃんと還ってくるから。そんなことを。

この感じが、消えてなくなることもいつかあるのかな。全然、想像つかないや。

石神 夏希 05/24
。。 05/24
さちこ 05/30
あずき 05/30
石神 夏希 06/01
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ものもらいになった。

空に散らばる星の間に、線を引いて、
何かの絵姿を浮かび上がらせるような。
私は「運命」は信じないけれども、
いくつかの偶然の間に、大きな意思を感じることがあります。
それを解き明かしたい、という衝動にも駆られます。

今は、自分の人生というか生活に
人とのご縁含めて、色んな新しい風が吹いていて
失敗も多いんだけど、なんか展開が速い。

イメージとしては、変なたとえなんだけど
空港の出発ロビーで、搭乗30分前に
急いでお土産を買って回ってる感じ?笑

待ち時間であると同時に、何か今いる場所から持って行くものを
限られた時間で取捨選択しなくちゃならなくて、駆けずり回っている。
あの人にはこれ、自分のためにはこれ。この土地の思い出に相応しいのはこれ。
焦って変な土産物を手に取っちゃうこともあれば、思わぬ宝物を発見することもある。
でも、もうそんなに沢山は持っていけないし、予算も限られてる。
搭乗時間を知らせるアナウンスが聞こえている。
しかも乗るのは帰国の便ではなくて、次のポイントへの新しい出発という感じなのです。

で、いよいよテイクオフ!ってなったら
実は乗っていたのが鈍行列車でした、てなこともあるかもしれないけれど。
気持ちとしては、ばびゅーんと雲を突き抜けて、
これまでいた場所を俯瞰で見ることになるのだろう、と。

そんな調子の5月は、だから多分すごく忙しくて、
疲れてものもらいにもなるし、だけど次へ持って行きたい宝物が沢山みつかるだろう。
そんな気がしています。

だから5月は好きさ。

.. 05/11
石神 夏希 05/12
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アキちゃん

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ブログ更新、ずいぶんご無沙汰してしまいました。

いまぺピンメンバーは、次回公演「マルチメディア」に向けて
基礎練をしたりしています。

初演時のマルチメディアは、とある商店街に住む幼馴染を中心に
話が進んでいきました。

マルチメディアを考える上で、「幼馴染」、特に私にとっては
小学校時代の思い出が鍵になっているように思います。

小学校低学年の頃、私は隣に住むアキちゃんとよく遊んでいました。
アキちゃんとは毎日いっしょに通学していました。毎朝、アキちゃんの
家に行き、「あ?き?ちゃん」と呼んで、眠たそうに出てくるアキちゃんと
学校に行っていました。

放課後の遊び相手も、もっぱらアキちゃんでした。
アキちゃんは物静かで活発な子どもではなくて、でも、家にファミコンが
ありました。アキちゃんはファミコンが得意でした。

私の家にはファミコンがなくて、親にも買ってもらえなくて、
ファミコンを持っているアキちゃんの家に行って遊んでいました。

でも、アキちゃんがファミコンで遊んでいるのをじぃっと見ているだけ。
私自身がプレイしたことはありませんでした。

放課後3時間くらい、ずっとファミコンをプレイしているアキちゃんを
見ているだけ。それが小学校低学年のときの私の遊びでした。

小学校4年のとき、父から誕生日にスーパーファミコンを買ってもらいました。
それからというもの、アキちゃんの家でファミコンをすることはなくなりました。
あの頃から、アキちゃんと通学しなくなっていきました。

いま思い出すと、あの頃、アキちゃんと私をつなげていたのは、
ファミコンだったのかなと思います。

自分がファミコンを手にしたとき、アキちゃんを手放してしまったようにも感じます。


いまもアキちゃんは私の実家の隣の家にいます。
時々顔を合わせるけど、なんだか、話すこともなくて軽く会釈して別れます。

それでも私はアキちゃんがまだ隣の家にいてくれていることをうれしく思うのです。

。。 05/11
下田 05/15
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